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​竹久夢二の生涯

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■誕生、岡山での少年時代(1884~1899)

・1884年(明治17)9月16日、夢二は竹久家の次男として、岡山県邑久郡(現・瀬戸内市)本庄村で誕生、茂次郎と名づけられた。家族は父親の菊蔵、母親の也須能、そして祖父母も同居し、6歳年上の姉・松香と6歳年下の妹・栄がいた。(長男は夭死)

・かつて竹久家は、代々続く造り酒屋だったが、父・菊蔵は、酒の取次販売を少し行いながら、村の議員を務め、農業も営んでいた。

・夢二は美しい母と姉に可愛がられ、幼少時から絵を描くのが好きな子どもだった。自身の記憶では「私はわずか三歳の時から筆を持って馬の絵を描いた」(『草画』序文)という。

・その才能は、夢二が1895(明治28)に入学した、邑久高等小学校の教師・服部杢三郎によって開花する。模写ではなく、外での写生を重んじる自由な教育方法が功を奏し、後に「私の最初の先生で、また最後の先生であった」(『草画』序文)と夢二は服部先生について、思いを寄せている。

・故郷・岡山の生家は、稲作が盛んな千町平野の、西大寺から牛窓港への街道筋にあり、鉄道のなかった当時は、瀬戸内海の要港であった牛窓へ通じていたため、非常ににぎわった宿場だった。

・芸能好きだった竹久家は、ここを伊勢神楽・人形遣い・旅芸人の世話役を買っていた。このような環境で少年時代を過ごした夢二は、芸能と旅から大いに刺激を受けた。
 

■神戸と北九州での生活、上京(1899~1901)

・1899年(明治32)、夢二は兵庫県の神戸中学校(現・神戸高等学校)に進学。岡山の家を離れ、神戸に住む叔父・竹久才五郎の家から通学した。

・中学校で夢二は、キリスト教、英語、野球に親しみ、さらに異国情緒溢れる神戸に身を置いて、外国へのあこがれを膨らませたが、この生活は長く続かず、8か月で中退した。

・岡山の両親を含む夢二の一家は、同年12月に福岡県八幡・枝光に転居する。(転籍は翌年)

・1901年(明治34)、官営の八幡製鉄所が操業し、父・菊蔵は製鉄所へ人夫斡旋などしたと伝えられる。家族と共に八幡に移り住んだ夢二も、製鉄所で製図工として一時期働いたが、この年の夏、東京に単身上京した。


■早稲田実業に進学、社会主義への傾倒、投稿を重ねデビュー(1902~1905)

・上京後の夢二は、人力車引きや書生をしながら苦学したが、1902年(明治35)9月、早稲田実業学校へ入学した。早稲田の友人と間借りして、雑司ヶ谷にあった、鬼子母神の裏手の農家で生活していた夢二は、友人を通じて社会主義運動家と面識を得る。平民社と関わって、その思想に傾倒するようになった。

・荒畑寒村(あらはたかんそん)の口添えで、1905年(明治38)6月、社会に主義機関誌『直言』に夢二の絵が掲載された。日露戦争に対する反戦の思いを題材に、夢二は諷刺色が強い作画で寄稿した。

・夢二は独学で絵を学習し、青年誌・文芸誌に投稿を重ね、この時期より「夢二」のペンネームを用いて、積極的に文章やコマ絵の創作を行う。6月、『中学世界』に投稿したコマ絵「筒井筒」が第一賞を獲得した。

・当時早稲田実業専攻科に在籍していたが、夢二はこの入選をきっかけに中退し、さらに投稿に専念する。そして、同年も終わりに近づいた頃、投稿作品の賞金を貰うために訪問した出版社の博文館で、編集者・西村渚山(しょざん)の知己を得て、夢二は画家としてスタートを切った。

岸環と結婚、失恋と「宵待草」誕生、「夢二式美人」と『夢二画集』が大人気(1906~1911)

・1906年(明治39)11月、早稲田実業学校の近くにあった、絵葉書店「つるや」を訪れた夢二は、その店を切り盛りしていた女主人・岸他万喜(きしたまき)と出会う。他万喜は夢二より2歳年上の未亡人であった。この店に図案と風景の絵葉書しかないことを聞いて、自ら筆をとった早慶戦野球の絵葉書等を持ち込み、美しい他万喜にも急接近した。

・1907年(明治40年)1月に出会ってからわずか2か月で二人は結婚。夢二は22歳だった。

・1908年(明治41年)に長男・虹之助が誕生。けれども夢二と他万喜はいさかいが絶えなかった。

・1909年(明治42)、夢二と他万喜は協議離婚した。しかしその後も、同棲と別居を繰り返して関係は続いた。(この後、1911年(明治44年)に次男・不二彦、1916年(大正2)に三男・草一が誕生した。)

・1910年(明治43)夏、別れた他万喜と、避暑のために千葉県銚子の海鹿島を訪れていた夢二は、成田町から来ていた長谷川賢(はせがわかた)に恋心を募らせた。彼女は夢二に月見草を受け渡し、夢二は「お島さん」と呼んで二人は交情を深めたが、一夏の恋は実らなかった。

・夢二は、海鹿島での失恋体験を「宵待草(よいまちぐさ)」と題して詩を作り、1913年(大正2)に現在の詩形「まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月もでぬさうな」として発表。さらに多忠亮(おおのただすけ)が詩「宵待草」に作曲し、セノオ音楽出版社より「宵待草」の楽譜が出版、表紙絵は夢二が担当した。

・別れてからも長く関係が続いた他万喜の存在は、夢二の作画に大きな影響を与えた。夢二が描く女性絵は、他万喜をモデルにして、「夢二式美人」と呼ばれる美人画を創り出した。他万喜の大きくつぶらな瞳、面長の顔立ちなどを捉え、夢二は徐々にスタイルを形成した。描かれた徐栄の顔つきは小さな口元と、少し眼を伏せたうつむきがちな表情が多いこと、さらに髪型・服装・小物に見る装飾、加えてしぐさに至るまで、夢二の趣味が随所に散りばめられている。また着物の袖口、裾から覗く手や足を大きく表しているが、手や足は人間感情を語るという、夢二独特の思想が反映されている。加えて全体のシルエットはゆるやかなS字曲線を描き、女性の曲線美と内面を映し出すようセンチメンタルで頽廃的な雰囲気を表現した。「夢二式美人」は大変な評判となり、明治・大正の理想の女性像とし広く知れ渡った。

・明治期の夢二は、雑誌や絵葉書のイラストを数多く手掛けて人気を得ていたが、それをさらに決定づけたのが1909年(明治42)、『夢二画集 春の巻』の出版だった。自身の初めての画集で、これは多くの雑誌に掲載されたコマ絵を画集として編纂したものであり、夢二人気を不動のものとした。

・夢二は以後、『夢二画集』シリーズをはじめ、自身の絵や文章で編んだ著作本を明治期だけで18冊、障害に57冊刊行した。そこでは画才だけでなく文才も発揮し、本を介して多くのファンを獲得した。こうして、波乱の多い私生活を送りながらも、夢二はデビューしてから数年のうちに人気画家に上り詰めた。

 

■初個展「第一回夢二作品展覧会」成功と、「港屋絵草紙店」開店(1912~1914)

・1912年(大正元)11月、京都府立図書館で初の個展「第一回夢二作品展覧会」を開催し、会場には137点の作品が展示された。夢二絵の多くはこれまでに雑誌や本、絵葉書など、印刷を媒介として広く親しまれていたが、日本が、油彩画、水彩画など多数展示され、夢二の肉筆作品を観賞できる絶好の機会となり、毎日数千名の入場者を数え、大成功を収めた。

・1914年(大正3)10月1日、日本橋呉服町に、夢二デザインの小物類を販売する「港屋絵草紙店」が開店した。夢二が手がけた一枚ものの木版画をはじめ、千代紙・絵封筒・浴衣・帯・半襟、さらに書籍や版画、人形等を並べて販売、現代における雑貨屋、セレクトショップのような趣で、夢二意匠の小物が人気を集めた。店舗の1階部分は夢二商品を販売するばかりでなく、時にはギャラリーとしても活用された。

・開店から間もない10月26・27日に「第一回港屋展覧会」を開催、また展覧会のメンバーだった恩地孝四郎、藤森静雄に加え、田中恭吉の三人が手掛けた木版画集『月映(つくばえ)』や、彼等が制作した木版画が店の飾り窓に並べられることもあった。店の2階は夢二のアトリエになっていたが、ここには画家を目指す若者や友人も集まり、サロン的な役割も果たした。夢二は弟子をとらない主義だったが、若い画家たちに助言したり、芸術論をかわすなどして交流を深め、この場所は「夢二学校」と呼ばれていた。

・港屋絵草紙店は、当時東京名物の一つで若い女性に人気が高く、この店の経営は、他万喜が自活を目的にしたこともあり、店頭に立つ他万喜も話題だったが、ここに来店した笠井彦乃との出会いが、夢二の運命を大きく変えた。


■笠井彦乃との恋、京都での同棲(1914~1918)

・港屋絵草紙店の開店からまもなく、この店に近い日本橋本銀町の紙問屋「芙蓉社笠井商店」の一人娘・笠井彦乃が訪れ、夢二と出会った。彦乃は夢二よりひとまわり年下で、当時18歳だった。

・夢二に憧れて来店する女性も多く、彦乃もその一人だったが、彼女は画家を志していたこともあり、夢二に志願して絵の指導を受けるようになる。また手が美しく、笑うと糸切り歯の見える明るい娘は夢二の心を捉え、二人はほどなく恋愛関係となった。

・しかし他万喜とのしがらみが断ち切れない夢二と、娘を溺愛して行動を監視する父親を持つ彦乃とでは逢瀬もままならず、彦乃を「山」、夢二を「川」と呼び合い手紙を交わしていた。

・1916年(大正5)に三男・草一が誕生した。

・約十年の歳月を費やし、夢二と他万喜は、同棲・別居を繰り返してきたが、1916年(大正5)秋、その関係を清算し、夢二は港屋絵草紙店を後にして京都に旅立った。

・京都に移り、夢二は彦乃との新しい生活を心待ちにしていた。清水二年坂に家を借り、次男・不二彦と先に暮らし始めたが、彦乃はすぐ来ることはできなかった。それは父親を説得するにあたり、日本画修業のため京都に赴くという口実をもうけ、周囲の理解と協力を図っていたからだった。

1917年(大正6年)6月、彦乃は念願の京都に来て、夢二と共に新生活を高台寺南門の鳥居脇で始める。同年8月から3か月の間は、金沢や郊外の湯涌温泉を巡る旅に出て、幸福な日々を送った。

・1918年(大正7)3月、彦乃の父親が突然京都の住居に現れた。夢二の説得もむなしく、彦乃は東京に連れ戻されてしまう。

・同年4月、京都府立図書館で「第二回竹久夢二抒情画展覧会」を開催するため、準備を進めていた。夢二としてはこの展覧会の成功を、彦乃の父親への結納にする意気込みであったにもかかわらず、彦乃と離れ離れになっていた。それでも展覧会は無事開幕し、この会期中に後援者の協力があって、彦乃は会場に姿を現し夢二と再会を遂げることが出来た。

・同年8月、夢二は、京都に彦乃を残して九州旅行に出る。彦乃は心労と体力的な負担から病に伏し、後から追いかけることになっていたが、合流した別府温泉で体調を崩してこの地で入院。再び父親に呼び戻され、9月末に京都の東山病院に再入院し、彦乃は監視下に置かれることになった。

・二人は引き裂かれ、夢二は京都から引き揚げて東京に戻り、彦乃も年末に東京に移され、お茶の水の順天堂医院に転院した。

■帰京、モデル・お葉との出会い、彦乃の死(1919~1920)

・夢二は帰京し、本郷の菊富士ホテルで暮らし始めた。彦乃の見舞いに駆け付けたい思いが募っても、父親は夢二の面会を拒絶した。

・「山」と呼び表していた彦乃を偲びながら、夢二は二人の想い出を歌で綴り、大正8年(1919)2月、美しい木版口絵を挟み込んだ歌集『山へよする』を出版した。

・この翌月、夢二は彦乃に「五ヶ月ぶりに三分間程逢えた」(岡田八千代宛手紙 3月6日)ものの、二人は会えない合えない日が続いた。

・失意の底にいた夢二を心配する友人らの手配で、同年の春ごろにモデル・佐々木カ子ヨ(かねよ)が紹介された。まだ15歳で少女の面影を残していたが、彼女はモデルとして、美術学校の学生や教授の間で人気を集めていた。

・夢二のモデルになり、”お葉”と呼ばれて作品が制作され、1919年(大正8)6月、日本橋三越でそれらも飾られた夢二の個展「女と子供によする展覧会」が開催された。

・彦乃は、病状が回復することのないまま、1920年(大正9)1月16日に逝去。23歳9か月の人生だった。
 

■帰京、モデル・お葉との出会い、彦乃の死(1919~1920)

・モデルとしての仕事だけでなく、お葉は夢二にお茶尾を入れ掃除や洗濯をして世話を焼き、生活を共にするようになった。夢二より20歳年下のお葉は、夢二のことを「パパ」と呼び、夢二は父親のような気持ちも持ちながら、お葉に接していた。読み書きが不自由だったお葉に手紙の書き方を教え、また理想の女性にしたいと思い、自ら選んだ着物や帯を装わせると、美しいお葉の姿は「夢二の絵から抜け出たような女性」と称された。

・お葉は夢二との結婚を望んでいたが、夢二にその心づもりはなく、気持の行き違いから二人は喧嘩が絶えなかった。

・1921年(大正10)、夢二は菊富士ホテルの暮らしを終えて、お葉と田端に住居を一時移した後、渋谷で暮らし始めた。

・1923年(大正12)9月1日に関東大震災が発生。

・震災を契機に、これまで借家住まいだった夢二は、自ら設計した住居兼アトリエ「少年山荘」を松沢村松原(現・世田谷区松原)に構え、1924年(大正13)暮れに引っ越した。

・「少年山荘」で、夢二、お葉、虹之助、不二彦、書生の青年との生活が始まった。しかし、夢二とお葉御関係は悪化し、さらに書生が服毒自殺を図る事件もあった。

・お葉は心身をいやすために当時に出かけたが、その間に、夢二は、本の装幀がきっかけで知り合った上流作家山田順子(やまだゆきこ)と恋愛関係を持ち、彼女の郷里である秋田へともに旅行もしたが、この交際は2か月ほどで終わった。

・お葉は旅先で、夢二と順子との関係を知り、大正14年(1927)夏、ついに夢二のもとを去った。

「榛名山美術研究所計画」と遅すぎた外遊(1926~1933)

・大正時代を過ぎ、元号が昭和に変わり夢二の身辺も著しく変化した。
・1927年(昭和2)5月から、夢二は『都新聞』に出自伝絵画小説「出帆」を連載。これまでの歩みや恋愛模様、その時々の心情が赤裸々に綴られた。

・1928年(昭和3)春に宇佐美雪江(雪坊)と出会い秋に同居。 

・1929年(昭和4)6月22日に赤城山「音楽と文芸の夕」に出席(朝日新聞編集長翁久允と接近)

・1930年(昭和5)5月、夢二は「榛名山美術研究所建設につき」の声明文を発表する。これは、“手による産業”を提唱し、地方の民芸品や手工芸品を改良、普及して商業美術の域へ向上させることを目的とした。榛名湖畔に山荘も建築し計画を具体化しようとした矢先、夢二に外遊の話がもちかけられた。

・1931年(昭和6)5月、夢二は榛名山で行おうとしていた仕事を中断してアメリカへ旅立った。

・外遊は夢二にとって長年の希望だった。当初アメリカで絵を売り、そこで得た資金でヨーロッパを廻る計画であったが、この話を夢二に持ち掛け同行した、作家でジャーナリストの翁久允とは絶縁。絵もほとんど売れず、さらに気候の変化は、夢二の体調を悪化させた。

・夢二はようやく資金を調達し、1932年(昭和7)10月、ヨーロッパに着いた。ヨーロッパでは、ドイツ・フランス・オーストリア・スイス等を廻った。

・1933年(昭和8)のペルリン滞在時にはイッテン画塾で日本画講習会を実施し、「日本画に対する概念」という演題で講演会も行ったが、外遊中は金銭及び身体面の苦難から逃れられることはなかった。

・同年9月、二年余りの外遊生活を終えて神戸港に帰国する。

・同年10月、夢二は生活の資を得るため台湾に赴き、展覧会を行う。その間にも病は、夢二の身体をむしばんでいった。同年11月に本土に戻る。

・夢二が肺をかなり悪くして様子がただならぬことに気づいた友人の望月百合子が医師・正木不如丘に連絡し、1934年(昭和9)1月、彼が経営する信州の富士見高原療養所に、夢二は入院した。

・夢二は正木と以前から友人関係にあり、病院の特別室に入院。結核の症状はかなり進行していて、療養の日々を送った。同年5月にはヘルペスのため右手がしばらく不自由となり、また、神経系統がウィルスに侵され、激痛にも襲われた。

・同年9月1日午前5時40分、夢二は49歳11か月の生涯に幕を閉じた。医師、婦長・看護婦らに見守られながら、最期に「ありがとう」と言って静かに息を引き取った。

・その4日後、東京・麹町の心法寺で葬式が営まれ、10月には東京の雑司ヶ谷霊園で埋葬式が行われた。墓石には、友人・有島生馬の筆で「竹久夢二を埋む」の文字が刻まれている。

 

(注1)夢二の外遊記録

【1931年(昭和6)】

・翁久允から米欧旅行提案 ・3-5外遊資金作り集会を連続開催 ・「立田姫」、「榛名山賦」制作

・5.7横浜発(秩父丸) ・5.15オアフ島ホノルル着 ・5.23ハワイ島ヒロ「大正寺」で個展

・6.3サンフランシスコ着 ・8.7翁久允と離別 

【1932年(昭和7)】

・2.29 UCLAで個展 ・3.18オリンピックホテルで個展 ・7-8 ロス五輪 9.9「青山河」制作(酒井米夫へ贈呈) 

・9.10サンピドロ港発(貨客船タコマ号) ・10.10ハンブルグ着 ・10.18ベルリン(ドイツ) 

・10.24プラハ(チェコ) ・10.29ウィーン(オーストリア) ・11.3インスブルック(同) ・11.7パリ(フランス)       

・11.20リヨン(フランス)  ・11.25ジュネーブ(スイス) ・12.6チューリヒ(スイス)

・12.8ザルツブルク(オーストリア) ・12.9ウィーン(オーストリア)

【1933年(昭和8)】

・1.10ベルリン(ドイツ) ・1.30ナチス党勢いを増し、ヒトラーを首相に任命。

・2月頃「イッテン・シューレ」で日本画教室開始 ・2月20日過ぎ頃 星島儀兵衛から500円送金される 

・2.24 国際連盟脱退を取材 ・6.26イッテン・シューレを辞任 ・6.27ナチスがイッテン・シューレを襲撃 

・8.19ナポリ出港(靖国丸)・9.18神戸港着 

(注2)夢二の台湾訪問記録

・河瀬蘇北から台湾旅行提案 ・10.23神戸港発(大和丸) 

・10.26基隆港着 ・10.26台北の鐡道ホテルで藤島武二と面談・カフェー「美人座」訪問 

・11.1東方文化協会台湾支部発会式(「蓬莱閣」(大稲埕) ・11.3-5警察会館で「竹久夢二滞欧作品展覧会」 

・11.3講演会「東西女雑感」(台湾医専講堂) ・?自動車故障により帰国船(扶桑丸)に乗遅れる 

・11.14台湾日日新報にエッセイ「臺灣の印象」掲載 

・11.?基隆発(?) ・11.17神戸港着

​※本記述は、『夢二という生き方』(石川桂子著、春陽堂書店)を参考にしたものです。

 

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