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謎多き夢二の台湾旅行
Yumeji's Mysterious Trip to Taiwan

あまり知られていないが、大正ロマンの象徴として知られる詩画人・竹久夢二は、数々の女性と浮名を流した後の米欧への外遊旅行から帰国してすぐ台湾に向かっている。

台湾に滞在したのは1933年10月26日から約3週間だが、資料が少ないことからほとんど取り上げられることがなく、数冊の本の一部と論文に事実の片鱗が書かれているのみというのが現状である。

これらの資料を読み合わせてみると、3週間のうち1週間程度しか行動が確認されてないようであり、また、つじつまの合わないところや推量で書かれている部分も多く、調査が非常に困難だったことを物語っている。
 

この理由は歴然としていて、まず、苦しかった米欧の外遊時でさえ書いていた日記が全く見当たらないことによる資料不足が挙げられる。台湾旅行から本土に戻ってから1週間ほどたった11月22日の日記で「何故日記など書く気になつたものか。自分の記憶に、かういふ心持は近頃ないことだ」(『夢二日記』長田幹雄編)と日記を再開したようなことも書いているので、台湾では書いていなかったのかもしれないが、国内でも盛んに描いていたスケッチも皆無という状況で、アリバイ探しは非常に難しい状態となっている。

同日記を見ると、もう一つ大きな問題があるのが分かる。前述の日記の続きはこうなっている。
「台北で一つの収穫があった。錦水といふ琵琶師がここでまねぢあに一杯食わされて帰ったという話。あの商人でさへ騙されることがあるのをせめてなぐさめとしやう。ゆふべ隣の静山が来て、「北米では男泣きに泣きましたよ」と言ったのは山県に数百金ナメラレタらしい口ぶりである。その話をたつ前に聞いておきたかった!それにしても、どつちでも好いやうなものだ。」 

つまり、夢二は誰か(「まねぢあ」と言っているので仲介者かもしれない)に騙されたようなのである。実際、夢二が台湾に持っていたと言われる54枚の絵は、現在1枚も発見されていない。展覧会の出品目録は現存しており、新聞でも一部詳細されているのだが、現品が全く行方不明なのである。
さらに、後述のとおり、帰途に乗った自動車の故障で本土に戻る船に乗り遅れ、夢二は手ぶらで本土に帰還したということになる。
​状況は複雑でさまざまなケースが考えられるが、いずれにしても、夢二の行動を探る資料は極端に欠落していると言えよう。


結局、頼りになるのは、当時の台湾最大の新聞社「台湾日日新報」の記事だけで、夢二の台湾到着時のことや、夢二が行った展覧会や講演会についての数点ということになる。ほとんどは記者の書いた記事だが、唯一夢二が書いたエッセイがあった。これが、夢二が訪台中で唯一自ら書いた文章であり、重要な資料となっている。

このような状況なので、箇条書き程度にしか夢二の足跡が負えない状況ではあるが、それでも当時の台湾の状況や、夢二と接触したごくわずかな人物、そして夢二のエッセイをもとに想像を豊かにして考えると、ある程度夢二の見たものや行動や考えたことが推測できるのは面白い。

 

それでは、数少ない資料を取りまとめ、台湾での夢二の行動を見ていくことにしよう。
1933年9月18日、米欧の旅を2年余りして疲弊して帰国した夢二は、1931年5月の出航直前に本の装幀をしてやった河瀬蘇北という人物から、彼が理事長を務める「東方文化協会」の台湾支部創設記念として個展と講演会の開催の打診を受けた。ちょうど外遊中の借金返済にも迫られていたことから、夢二はこれに応じ、10月23日、帰国後僅か1か月余りで大和丸に乗船し、神戸港を後にした。同行者は河瀬理事ひとりであったようだ。

基隆港に着くと、台湾日日新報の記者が待ち構えていた。それもそのはず、夢二は外遊中に「行方不明者」としてマスコミに扱われていたのだ。外遊に出る前に女流作家の山田順子との交情で同棲していたお葉が逃げ出したことなど好い噂のないまま海外渡航したからであろう。

夢二が真っ先に聞かれたのは、夢二がヒトラーに追い出されて帰国したかどうかということだった。欧州各国を巡り歩いていた夢二だが、夢二はこう答えている。
「私はナチスから追はれたと云ふことはありません。例のユダヤ人の排斥で技術、芸術家のユダヤ人が人種的迫害を受けた結果、ドイツの技術も見込がなくなったので帰つてきました。」

実は、夢二は同年1月からベルリンのイッテン・シューレという画塾で日本領事館の助けを得て日本画の講師を始めたのだが、同時期にヒトラーが首相となり、ユダヤ人が多かった夢二の生徒は日に日に減少していき、ついに帰国するに至ったのである。
夢二が画塾を辞めた次の日にゲシュタポの攻撃により画塾は崩壊したといわれている。

こうして夢二は基隆港での一仕事を終え、30㎞程離れた台北に入った。交通手段は不明だが、帰りに自動車を使ったことが分かっているので、おそらく、河瀬理事長の迎えの自動車に同乗したと思われる。

ホテルは台北駅の目の前に建つ台湾随一の「鉄道ホテル」だったと思われる。このホテルは30室しかなく、皇族も宿泊するレベルのホテルだが、政界につながりのある河瀬理事長の力で一室確保したのではないだろうか。後述するが、夢二のかつての憧れの的であり、さまざまな場面でつながりのあった巨匠画家・藤島武二も同宿であったことから、このことが推測できる。ちなみに「夢二」という名前も「武二」からとったものだという。

 

さて、ここから話は一気に1週間飛ぶ。記録がないのだ。この間に夢二は個展の準備や市内見学などをしたとは思われるが、全く記録がないため、どうしようもない。

ただ、地理的な関係から行くと、夢二の泊まった鉄道ホテルは南陽街とい繁華街的な小路に面しており、ここを北に行けば1分で台北駅に着く。また、南の方に3分ほど歩くと展覧会場となっている警察会館、さらに3分ほど行くと、かつて南北鉄道貫通記念として後藤新平のために新館を設置した国立台湾博物館があるという地理的関係にあることから、歩くことをいとわない夢二としては、まるで箱庭にいるような気分であったと思われる。かつて欧州で瀕死の状態になった夢二であり、体調は相当悪かったと思われるが、この程度の散策は十分したと思われる。また、河瀬理事長の計らいで部下に夢二の台北市内案内をしたということも十分考えられる。
 

台湾到着から6日後の11月1日、東方文化協会台湾支部発会式が大稲埕にある「蓬莱閣」で開催された。この地域は、日本人の大部分が住む城内(かつてあった台北城の内部)からは北に離れたところにあるが、現在では迪化街が観光名所となっている台北の下町にある。ここは1895年の日本統治以前の茶の貿易の中心地であり、日本統治後も有力の中国人が大勢住まい、一大繁華街となっていた。飲食店が集中し、大きなカフェもあることから、夢二としては大いに関心のある場所であったようだが、彼がここに私用で行ったかどうかは定かではない。

なお、翌11月2日にこの式典に関する記事が「台湾日日新報」に掲載されたが、同時に「竹久夢二滞欧作品展覧会」の紹介記事も同じ紙面にあった。

 

​​​​​​​​​​​​​​​​翌日の11月 3日から「竹久夢二滞欧作品展覧会」が警察会館で始まり、夜には台湾医学専門学校で「東方文化協会台湾支部設立記念講演会」が開催された。河瀬蘇北理事長が講演を行い、それに続いて夢二が「東西女雑観」とだいして話をした。内容は不明という説が多い中で、女子美術大学講師の西恭子氏が、夢二が訪台する直前に雑誌に執筆した類似の題名の文章を論文に載せている。夢二が台湾でそれと全く同様の話をしたかどうかは定かではないが、興味深い着目点である。

 

11月 3日から同月5日まで開催された「竹久夢二滞欧作品展覧会」だが、あまり盛況ではなかったようだ。警察会館というあまり一般人の入りにくい会場で開催されたことや、同時期に訪台した藤島武二もそう語っている。

なお、「台湾日日新報」に主筆の尾崎秀真による展覧会の批評が「鷗汀」名で掲載され、展示作品を高評価をしているが、次のような書き出しを見ると、当時の夢二の一般評価が見えてこないでもない。
「久々で竹久夢二君の繪を観る。時代の潮に姿を没したかに思はれてはゐたが、此の畫家が持つ昔ながらの「人間情熱」は、まだ作品の上にまざまざと活きている。否或る點で一部洗鍛され老熟して来たかの観もあり、相當に面白く観られた。」

展覧会を終えた後の夢二の行動は、本土に帰る予定日まで不明である。しかも予定日が何日であったかもわからない。

ただ、ここで重要な資料が一つ残る事件が起こった。台北から基隆港に向かう自動車が山中で故障してしまい、夢二は乗船する予定だった扶桑丸が出航するのを丘の上から見送る羽目になったのだ。

この事件のせいで、夢二はそれまで関心のなかった当時の台湾の状況を改めて見た感想を「台湾の印象」という題名を付け、11月14日付で「台湾日日新報」へ投稿している。

他の新聞記事は全て新聞社で書いたものであることから、このエッセイが、訪台時に夢二が自ら語った唯一の言葉ということになる。

 

このエッセイは「台湾の印象 グロな女学生の制服」という、いささか変わった題名である。内容は、前半が台北から基隆港に向かう間に自動車が山中で故障してしまい、丘の上から出航する船を見送ったという前述のとおりの事件を語っているが、後半は主題の台湾に関する夢二の印象が綴られている。要約すると、夢二は台湾に到着して以来、当時の台湾にいる人の大半が「本島人」(漢人のこと。1895年の日本統治開始以前に中国大陸から移住してきた中国人)であることに気づかなかったが、次の船を待つ間にそれに気づいたというのである。さらに、台湾では制服を着た人間(おそらく官憲のことであろう)が非常に多いことにも気づいている。
夢二はこの年春にジュネーブで行われた日本の国際連盟脱退につながる国際連盟総会に立ち会っており、その後はドイツでヒトラーの所業を見ている。1901年の上京時に社会主義者と交わり、その後も官憲に追われる日々を過ごした夢二にとって、当時の台湾は、非常に懸念の多い状況であったということであろう。
制服を語るのに「女学生」を持ち出しているのは、新聞の検閲を避けるためという意見が多いが、おそらくそうであろう。夢二といえば女学生、ということで、この記事は見事に検閲をクリアしたようだ。
参考のため、文末に「台湾の印象」の記事全文を掲載しておく。

こうして、この後夢二は基隆港を出発し、神戸港に11月17日に入港している。
その後、12月に自宅の松原にある少年山荘で瀕死の状態で一人寝ているところを友人の望月百合子に発見され、友人の正木不如丘医師の計らいで翌年早々に長野県にある富士見高原療養所に入院。一度も退院することなく、9月1日に「ありがとう」と医師や看護師に言い残して世を去った。

 

なお、後日、藤島武二が追悼文の中で、台湾美術展覧会の審査員として訪台した時に夢二に出逢ったことや、展覧会が盛況でなかったこと、また、同宿していた鉄道ホテルの近くにあった「美人座」のカフェに夢二ファンの女給がいたので夢二を呼んで紹介したら喜んでいたことなどを記載している。

いずれにしても、資料が少なく、詳細のはっきりしない夢二の訪台で亜春が、今後資料が見つかることも期待して、焦らず研究を続けていくこととしている。

なお、本年(2025年)2月10日に、「夢二 異国への旅」の著者、袖井林二郎法政大学名誉教授が他界された。私は、2016年に初めて台湾に行く縁があり、夢二が訪台したことを知って以来、同氏の著述を中心に夢二の台湾について関係書籍や論文に教えを請い、2023年、訪台10回目にして国立台湾大学と北投文物館で、それまでまとめた内容を講演する機会を得た。当然、研究というにはおこがましい、取りまとめと疑問点を紹介しただけの拙い講演であったが、講演の目的が夢二に対する理解促進であることを理由に勘弁したもらった。
夢二と台湾に関する詳細は、「夢二と台湾」としてブログ発信を継続して行っており、今後とも夢二と台湾には関わっていく所存である。

なお、夢二の訪台に関する詳細を22回にわたりブログに掲載しているので、関心のある方はご覧ください。
*「夢二と台湾」(note)
第1回「謎多き夢二の台湾訪問」|yumesay

【参考】

11月14日記事「臺湾の印象ーグロな女学生服ー竹久夢生」(台湾日日新報)
 

二十五年シボレイは呼吸をきらし切らし四十哩を出したが、基隆の裏山まできてへたばって終わった。四時八分前!わが乗るべき扶桑丸はもう八分を待たずして出帆するのである。吾々の自動車は「もうどうにも走れない」といふのである。丘の上までゆけば扶桑丸の煙が見えるであらうといふ。

私は、この小高き丘の上で、友人に挨拶する間もなく倉皇と立ってまた台北の方を望み、また遺憾なる煙を上げてゆく扶桑丸を眺めやる。しかし私は山の形や岬の方は見ない事にする。そこはやかましい要塞地帯で、私が絵かきだから、制服を着た人間に心配掛けないためである。

私はこの丘の上で思ふ。何故なれば、次の船の出る日まで充分思ふ間があるからである。私は何しに台北へ来たか。私は台北で何を見たか、私は台北においてなんであったか、或は無かったか。かういふ主要な問題をやっと考へる時間を持った。

 「台湾には生蛮人と制服を着た日本人が居る」さういふのが私の台湾に対する人文地理学であった。その他に何があるのか、私は知る必要もなかったから、考へても見なかった。つまりこちらでいふ本島人がゐることに気がつかなかったのだ。しかしこれは笑へない。多くの日本人はいつの間にか、本島人の居ない台湾を知るに過ぎなかったのではないか。

(編者注:本島人…清朝時代の中国渡来の人。漢人)

その寄ってくるところはその政策のためか、感情か、私は知らない。急に本島人が山の中からでも出てきた見たいに言ふ人があるが、なるほど、来てみると本島人も居るが、制服を着た人間もずいぶん居るのには驚いた。

後藤新平の予言が果たして卓見になるかどうか、次の船までに解るものではない。 (編者注:卓見…優れた意見)

本島人はせっせと日本語を勉強せねばならないだらうが、日本人もまた本島人の住宅と衣服に就いて学ぶべきものがあると思ふ。ことに台湾に生活するときに於いて。つまり台湾の風土に適応するために、およそおかしきものは台湾に於ける女の学生の制服である。ああいふ帽子はーさうだあらゆるグロテスクな俗悪醜悪な形容詞をつめこんでもまだ一杯にならないであらう。

 「汽車に注意すべし」といふ立札の(に)を(も)書き換えて「汽車も注意すべし」とあった。この浅いおかしみが、この無邪気な作者に理解されてゐたのではない。

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優秀な人種だと考へることのできる人種だけが優秀なのである。私はまた少し眠くなった。(八年十一月十一日)

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